春の選抜高校野球の東海地区代表選考における決定について大変な騒動となっている。
選考漏れした高校のOBが選考の見直しを求める署名活動を行うまでの騒ぎとなってしまった。
個人的にも全くもって理解できない選考で、私が監督の立場なら選手達にどのように伝えるべきかと
考えただけでも言葉に窮してしまうのは想像に難くない。
甲子園だけが全てではないと綺麗ごとのように言うのは簡単でもあるが、
選手だけでなく親御さんや関係者の気持ちを思えば何ともやりきれない気持ちになる。
北京冬期五輪での採点競技における審査基準やスーツ規定問題などに関しても、
色々な意味で物議を醸しているのだが、前述同様、何とも言えないモヤモヤ感だけが残ってしまう。
あるアスリートが競技終了後のインタビューで
「スポーツマンシップって何なのだろう。」
とジャッジに対して疑問を投げかけていたのだが、この舞台のために全精力を傾けてきた結果が
不本意な結末で終わってしまうこと自体あまりにも残酷すぎる。
人が介在して行われる「ジャッジ」については、とかく矛盾が生じてしまいがちである。
私が数十年前に営業職として勤務していた会社は、数字のみが評価基準という非常にシンプルな会社であった。
年齢や役職に関係なく、給与も営業成績のみで決まるため、上司よりも良い営業成績であった月などは優越感に浸ることもできたものであった。
少々の問題は力技でねじ伏せていた感も否めないのだが、
「透明性」
だけで言えば非常にクリアであったし、人間関係も非常に良好な会社であった。
しかし、次に転職した会社では「人事考課」という見えない壁が立ちはだかり、賞与や昇給における査定において不透明な部分が大きかったため、
年に数回行われる上司との面談で折り合いがつかず、その評価を引き金にいらぬ寝た子を起こし、社員間で摩擦が生じてしまい、
職場を去ってしまった同僚も少なからず存在した。
両極端な事例を経験した私からすれば、当然ながら前述の会社の評価基準が単純明快で納得度が高かったと迷わずに言えるのだが、
介護事業所にそのまま適用することはほぼ不可能な事であると言える。
当然ながら介護事業所で働く職員の評価基軸は、商品の対価ではなく、日々の介護サービスの対価であるわけであり、
その透明性とは何なのかと考えた場合、非常に難しくもあり悩ましい問題でもある。
新しい交付金や処遇改善加算などの取得要件もここ数年だけでも細かく変化してきている。
いかに身の丈に合った独自性を確立していくのかが今後の大きな課題であるのかもしれない。